昭和四十七年三月四日 朝の御理解
X御理解第十七節 「神の綱が切れたというが、神は切らぬ。氏子から切るな」
神様に一心にお縋りし抜いて行くということだと思うです。一心にお縋りし抜くという。皆さん御承知でしょう、久米の仙人というのがありましょう。久米の仙人という有名な話があります。仙人のことですから、空中を飛行しておったのですね。ところが、たまたまある川の上を飛んだところが、若い女の人が、赤い湯布をこうはぐって洗い物かなにかしておった。それに空中飛行しておった仙人が目をとめて見とれてしまった。やはり仙人も人間であるということである。いわゆる、赤い湯布に迷うたということであります。そして、今まで空中を飛行しておったのが、真っ逆様に(神)に落ち込んだという話なのであります。
私はその久米の仙人のことを頂くのです。どういうことかわからなかった。これは私共でも生身を持っておる人間のことでございますから、いつどういう時に迷いが起こらんとも限りません。そして、今日御理解を頂きますと、この十七節ですから。「神の綱が切れたというが、神は切らぬ。氏子から切るな。」とおっしゃる。この御教えとそれとを見合わせて、まあ言うなら神様から飛行させられておるというか、神様の綱にぶら下げられているのではないでしょうかね私共は。
これは、信心をさせて頂いておる、ところが、久米の仙人じゃないですけれども、飛行中に若い女の艶かしい姿を見たとたんに、川の中に落ち込んだと。だから、神の綱の切れるということは、そういうようなことじゃないかと思いますね。決してお道の信心で、赤い湯布で迷うたら、もうおかげを落としてしまうなんてそんなちっぽけな神様じゃないです、この神様は。けれども、その理屈がね、言うならば、それよりも、もっともっと神の気感にかなわぬ、神の気心にかなわぬ。信心はしよっても、一心に縋りよってもです。もう、信心は何十年続いておると申しましても、神の綱も切れたも同様に。神の綱が切れていないという時には、おかげを頂き続けておるという時ですからね。
私が今朝から頂く、久米の仙人じゃないですけれども、飛行の術をもって飛行しておるところに、その艶かしい女の姿を見て、見とれた。そして、真っ逆様に飛行の術が破れてしまって、川の中に転落したと、こういう、いわゆる、神の綱が切れたわけであります、
転落したというのは。それからというて、金光様の御信心は、さあその二号さんをもったから、三号さんを持ったから罰かぶるといった小さい神様ではない、実は。
只それをね、それにね、自分がこういう悪いことをしているのだという心が、神様の気感にかなわんのです。人間ですからね、やはり。俺は実力があってやっているのだと。俺は実力があるからと、例えば悪人でもね、本当の極悪人は罰かぶらん。もうその、悪いことという自覚がないわけです。だから、神の綱が切れないわけですね、言うなら。
そんな話がありましょう。石川五右衛門が死んだ。ところが、閻魔大王の前で、その道連れになったお婆さんが、沢山の念仏を大きな袋で重たそうに担いで行きよる。ところが、石川五右衛門は小さか念仏を一つしか持たん。こんなことでは極楽には行けん、地獄に行かにゃなるまいと思ってから、石川五右衛門はねえ、やっぱり根性が性悪なものですから、「お婆さんあんたがそれは重たかろうけん俺が持ってやろう」と、そして「私とを持ちなさい」と、その小さか方ば持たせた。
そして、もう沢山のその念仏の入っとる袋を石川五右衛門が担いでそのまま閻魔様の前に出たという話がある。ところが、ばばさんは「極楽に行く」と言わっしゃった。それが、たった石川五右衛門は一ぺんしか「南無阿弥陀仏」と言ったことはなかったけれども、それには実があったというわけなのであります。悪いことしたことになんか、全然悪いこととは思ってなかったということなのです。
婆さんはもう朝から晩まで、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」言いござるばってん、みんな空念仏じゃった。だから、石川五右衛門が持ってやたった念仏が空念仏じゃったから、「お前は地獄に行く」と言われたという話がありますよね。悪の自覚というのがないのです。
ところが、普通の人間はです、自分は偉そうに言っておっても、どこの隅にかです。いわゆる潜在意識と申しますか、そういう意識の中に、自分はこいう罰なことをしとる。こういう罪なことをしとるという、それが貯まり貯まって、神の綱が切れる結果になるのですよ。だから結局、「君子危うきに近寄らず」でありましてね、もう本当に、いわゆるドライな行き方というのでなくてです。やはり、実意丁寧神信心ということが一番ということになりますね。
昨日、善導寺の御大祭から帰ってまいりましてから、秋永先生がいろいろ話している間に、「私は他所の大祭やら、他所の宅祭に行くのやらが、億劫で億劫でたまらん。何にもならんごと思う。大体行くとが本当でしょうか、行かんとが本当でしょうか」とこう言うわけです。「そりゃ、行くのが本当じゃろうなあ。例えば合楽の場合は、宅祭をするということは、もうそれは大変なことなんだもんね、その家はその家で」
例えばつい最近、永瀬さんがありました。大和さんがありました。もうそれこそ何ヵ月間そのことに思いをかけておられるのである。そして一人でも多くの参拝があることを喜びとされる。だから、そういう比礼に私共は浴することが出来る。同時にやはりお付き合いということもある。
この間から秋永先生、そういう時にあの人はえらい割り切ったことを言うて、ストッと落とすようなことがあるですね。この人はもう昔からでした。もうえらいずばぬけたことを考えるかと思うと、えらい信心のないような者でも思わんようなことを思ってですね。そういえば、このところ大和さんところにも来とらなかった。それこそ、大和さんやら、久富さんやらは、あちらの毎月、毎月のあれにもわざわざ遠い所から、ああいうお百姓の仕事の忙しい時であっても必ず行っておいでられるから。それに対してでも、大体言うたら出て来にゃならんのが本当ですけど、秋永先生、そういうところは非常にドライなんですね。割り切ってます。
昨日も私にそんなことを、「どげんでしょうかね、私は何にもならんと思うけん、何にもならんことはせんが良いと思いますから」と言いますから、それはそうばってんねえ、やっぱりそこのお祭、お祭のお客が、私一人行けばそれだけコロッと損しなさる。言わば、御直会なら御直会が一人分損しなさると言うわけです。だから、「行かん方がおかげは本なことじゃなかろうかと思います」と言う。ここは秋永先生の欠陥と思いますね。時にそういうこと言うです。素晴らしいことをズバ抜けて言うと、時にえらいドライなことを言う。
同時にまた、それは人間である限り、やはりお付き合いというものがある。もう信心しよるけんそげな付き合いはいらん。自然と切れてくることは素晴らしいですね。私共そう思います。段々段々信心のない人のお付き合いというものは、薄うなってきますよね。向こうから寄り付かんごとなって来ます。それは有難いです。煩わしくないですもんね。お話をしようたっちゃ、「今日は寒うして困りますの」と信心のない人はそうでしょう。「ほんに今日はおかげ頂いて有難い」と、話が合わんです。「ちょいと困ったことですの」と、こっちは有難いと思って、「いえ、有り難うございます」と言うたっちゃ、信心のない人と話が合わんとです。けれども、お付き合いというものがありますからです。けれどお付き合い、人間の世界におる限りの付き合いというのも、やはり信心の内だと思いますけど。
そういうようなドライな考え方の時に、考え方にお道の信心は、それこそ、神から切らないけれども、氏子から、自分から神の綱を切るようなことがあるようですね。「神の綱を神からは切らぬ、氏子から切るな」というのは、神様一心、ずーっとお縋りし抜いとけ。それからと言うて、秋永先生の場合、信心を止めると言いよるとじゃない。只、御広前と自分との関係だけが育ってさえ行けばよいということなんですけれども。やっぱり、横縦のつながりがあって初めてプラスになると神様はおっしゃる。私と皆さんだけでよかろうごとあるばってん、やはり、横縦のつながりが出来て初めて完璧なものになって行くのですね。いわゆる、組織というものはそういうものなのです。横のつながり。
昨日は親教会の報徳祭でしたから、ここからも沢山お参りして頂きました。本当にまあ、秋永先生に言わせますと、何にもならん、参ったっちゃ本当に時間がもったいなかという感じがせんではなかですねやっぱり。けど、私は思うのに、私はやはり「どういうとこ
ろにも真心になれ」と言われるけん、何か頂いて来なければ馬鹿らしかと言う。
その、私はいつも算盤高いですからね、信心の上でも。ですから、何かはそこに頂いて帰らにゃと、もう往きの方は寒うして寒うして。私は毛のシャツを上下着せて頂いた。それで完全武装のように、後ろにはこたつの小さいごとあるとを入れて、そしてあちらに行きましたら、ストーブが入れてあって、熱かごとあるとの中にも寒かった。それで、お祭りが済んだらすぐに帰ろうと思うたっちゃ、実際はそのお祭の済むまで何にも頂いていなかった。それから一時間半ばから説教がありましたのが、もう聞かせて頂いております内に、昨日若先生が帰って参りまして、秋永先生と二人で話しよりますところへ帰って参りました。
今日は田中先生がえらい喜びよんなさった。なしやと言うと、「もうあなた方の親先生が始終合点してから、私のような者の話を聞いて下さってから。もう本当に話しがしよくて、本当におかげ頂いた」と、喜びなっさたと。私は、これはもう負うた子に教えられるということがあるくらいですから。まして田中先生といえば、本部で議員までしてある方ですから。若い先生ですけど、仲々やり手の先生です。お話しも仲々上手ですね。その話を段々頂いていく内に、本当に一人合点せにゃおられないようなお話をなさった。そして、なにか知ら、昨日報徳祭のおかげを頂いた。そして、元取ったという心で帰らせて頂いた。
その中にね、こういう話がございました。私の兄ということについて話してくれましたけど、義理の、姉さんの婿に当たるわけです、その田中先生は。それから翌年私の兄が亡くなりましたが、胃癌でした。手術の結果が悪くて亡くなられたのですが。もうお茶も水も入らんようになってから、見舞いに行った時に、「照馬さん」と言われますから、「照馬さん、本当に人間はね、お茶が飲みたい、水が飲みたい、あれが食べたい、これが食べたいと言ってね、心にそれを感ずる、食欲を感ずるというそのことが、どのくらいのおかげかわからんぞ」と、これが最後だったそうです。
もう私は、死ぬ間際にですね、いわゆる永年お道の教師をなさってですね、偉い先生でありましたがです。その先生が最後に言われたことはです。どんなに百味の御食を並べられましても、食欲すら起こらないことはです。もうおしまいということは。ですから「食欲があるということは、起こるということは、先ず食物を頂くという前に、食欲が起こるということは、御礼を申し上げねばいけんぞ、照馬さん」と言われたという話を聞きましてね。
命のギリギリの時に、ギリギリの話というのはこんなに感鳴、私は涙がぼろぼろこぼれた。本当に私は信心の根本といったようなものはね、そういうようなことではないでしょうか。美味しいの、美味しくないのという段じゃない、その前にです。飲みたい、食いたいという、そういう例えば欲なのことが心の中に起こるというそのこと自体がです、神様のおかげを頂かねば出来ることじゃない。この根本のところの御礼を忘れておるというのであります。
ですから、この御理解第十七節でもです、そういう根本的なところにいつも信心が根ざしておったらです。神の綱を切るということはますますないでしょう。「驕りがましいことをすな」と教祖はおっしゃいますが、驕りがましいことをすると、まあ、これはまた、驕りがましいと言うても、これはもう限界がありませんですからね。
例えば、私が米のご飯を頂いておるということが、もしこれが二十年前であったら、驕りがましいことであったかも知れませんね。今日の私共は、米のご飯に鯛の刺身を頂いとっても、驕りがましいことはないのですよね。ですから、そこのところの見解は、また、自分で考え、自分にはこれは驕りがましいことではなかろうかと。 この頃、綾部さんところの霊祭がありました時に、御直会に長女の絹子さんが、素晴らしいことを言っておりました。「お母様、あなたが選ばれる着物というのが、あなたには、あなたに丁度釣り合っとる着物だということ。それを今までは、子供の私が、子供の分際でですね、それが当たり前のように思うておった。お母様が買ってくれるのを当たり前のように思うておった。これは考え方が違っておった」と。今、自分がこつこつと働いて給料取りになっておられるから、それを感じたと。だから、この洋服は、普通の市値の何分の一かで買った生地で、自分で仕立てた服だと言うのです。いわゆる、分相応ということなのです。そういうことなんですよ。お母さんにはそれは驕りがましいことではないけれども、娘にとってはもう驕りがましいことだという。良いことがわからせて頂いたねと言うて、私はお話しを聞かせて頂いたことでした。
確かにですね、特別に驕りがましいことが、やらの時には神様がストッとこう薄くなるような気が致しますね。切れはせんでも、それこそエアーポケットに入ったごとある、飛行機が。言うような感じがしますよ。切れてしまえば、しませんけどね。
けど、そういうのが募り募ってです、本当にそれは久米の仙人じゃないけども、下界に落ちてしまわねばならんことになるわけです。神様が切りなさらん。氏子から切るなとおっしゃるが。なら、「金光様、金光様」と言うて一生金光様に縋り抜いたと言っておっても、石川五右衛門のその話ではないけれども、空念仏であったらどうでしょう。この人は金光様、金光様ばっかり言うてから教えの頂き違いをする。または、ドライに考える。割り切って考える。どこどこまでもやはり、凡夫の氏子の自覚というか、やはりどこにお粗末御無礼があるやら知れませんという自覚、信心に。そこで、お詫びが必要である。
ですからもう、何十年間、金光様、金光様と言い続けました。ということが、神の綱が切れたということにはならないということ。信心のいわゆる根本のところ、有難い、勿体ない、畏れ多い。この例えば、三つの信心内容というものが、私共の心から欠けてはもう信心にはならん。この心がある限り、神の綱を切るようなこともない。
それをまあ具体的に、私は昨日わからせて頂いたというのが。食べてから、食物は命のために神様が作って下さって有難いというだけでなくて、その前に食欲が起きたというそれ自体にです、御礼申し上げる。そういう根本的な姿勢というものが出来ております限り、神の綱を切るということはまずまずない。なかろうと思います。 そこから本当に、食
欲、それはどういう粗食でありましても、それがまだ美味しく頂けるということが、また有難い。「その有難いという心におかげがある」と仰せられるのですから。そこから、驕りがましいこともなくなって来るだろう。また、「信心しておって」と人から言われることもなくなってくるであろう。
神の綱を氏子が切ると、神は切らんと、こう言われる。というところを、ただ、「金光様、金光様」を唱えたり、「金光様、金光様」の信心をしておると言うだけではいけない。それは沢山なおかげを頂いておるだけでもいけない。根本が、やはり有難い、勿体ないものが、いよいよ育って行くものがなければ、そういうおかげはもろい。
昨日私は、田中先生の話から、話を聞かせて頂いた。御大祭ともなると、車が千台から集まる、五千人からの集まりがある。そこの御比礼のこれがどういうことかというと、いろんなお願いに、例えば体が悪いと言われると、「ちょいと裏さへ来い」と、自分の部屋さえ連れて行かれる。そして、「帯を解け」と言うて帯を解かしなさる。そして、どこが悪いか、どこが悪いかと言うてしっかり決めといて。そこをしっかり、「ここが悪いのだね」と言うて、その悪いところを自分が掴んでおいて、神様に願われる。それが不思議に良くなるそうです。それでもう、大変な御比礼だそうですね、金光様として。
先日も私は、ある教会に、朝の御祈念に二千人からお参りがあると聞いた。そこの先生の身の上というのが、寝ることを忘れる、食べることを忘れる、着ることを忘れるという。これがもう七十幾つの御婦人ですが、それがここの信心の身上だとおっしゃいます。そういう一途な思いは、確かに神様を動かすですね。私共でも、そんな話を聞いて思うことは、布一寸買いません、下駄一足一切買いません、米一粒買いませんと、家内と二人でそのことを誓うたことを話して、それが今日まで出来続けておるということだけでも、おかげを受けると思いますね。
ところが、なら合楽の場合は、それでおかげを受けただけではいけない。ということは、いわゆる、成り行きを大切にせよということであったり。真の信心というのは、成り行きそのものを、いよいよ大事にして行くことが徹底して教えることであります。ここでは御事柄として受けて行けということであります。いわゆる、そういう信心、理想が現れて参りまして、和賀心をつくるとか、宗教革命とかということが成長しとるわけです。だから、そういう信心が身について、人が助かって来るということにならなければ。もう、それをね、まあ、言うならば、うたかたの粟のようなものです。
私はそげな話を聞いてから、負け惜しみじゃないですけど、そう思いました。合楽の信心の基礎というのが本当にできたらね、それから、枯れ木も山の賑わいという人がどんどん助かるということがね、合楽の本当の使命であり、合楽に神様の懸けられる願いはそれであり、それを私共、どうでも頂いとかんならんということです。 擦ってもらって病気が良くなった。先生がそういう修行しござるけんどんどん人が助かるというような、もうそれ代わり、御理解がない。「此方の道は話を聞いて助かる」というが、言うならば、おさすり同様ですたいね。そげなことしよると、人間じゃけんで、久米の仙人じゃなかばっ
てん、いらんところまで擦ることになりますよ、のや、と、思います私は。
だからそれがね、その言うならば、御比礼の元になっとると言う、御比礼は危ないなあと。お願いすれば助かる、お願いすれば助かると言うような、言うならそういう信心であったら。ですからこれはどうでも、私がいつも申します。今日の御理解で言うならば、神の綱が切れたという、神は切らんとおっしゃる。神様の綱が切れぬで済むおかげのために、根本的なところの信心を身につけておこうと言うのです。
その信心内容というものが、いつも有難い、勿体ない、畏れ多いというのでありますが、それにはギリギリの根本のところの信心というものが身につかなければいけない。だから、それとこれとが相まって行かねばいけない。そのおかげと、信心が本当の意味でわかるという。信心とは車の両輪のように足ろうて行かねば、お道の信心の値打ちはないと思う。
真実、田中先生が、断末魔の苦しい中から、「照馬さん、本当に食欲があるというそのこと自体に御礼を申し上げねばいけませんぞ」と言われたという。もう本当に根本的な、ここんところに御礼が言えれよったらです、問題はないですね。そういうおかげを、信心を身につけて行く限り、神から綱が、氏子から切るようなことを、神様に切られるということを、神様は切らんとおっしゃるけれども、やはり、あんまり、余りざまがない生き方をしよると、神様から切らんとおっしゃることも、これはあながち言えないことです。そういう例はいくらもあります。
ですけど、そういう根本的のところに信心の真味というものを感じながら、信心の稽古をさして頂いとるところに、信心も育って行くことであろう。神の綱が、言わば切ることもなくおかげを頂く。ただ、ここで間違えてはならないことは、私はもう一生懸命、一生金光様を言い続けたということは、神の綱を切っとらんということですよね。どうぞ。